バレンタインデーになると思い出す 2025.2.14
遠い遠い昔のこと、私は銀座に勤めていた。
いつも乗り降りするのは、銀座4丁目の地下駅。
そう、その日は冷たい風が吹きすさぶバレンタインデーだった。
いつものように階段を降り、地下のホームへと向かった。
混み合うホームの中で、
ふと、すすり泣く声に気が付いた。
ホームの最前列に、若い女の子が右手にチョコらしい箱をぶら下げて
人目も構わず泣いていた。
事情は直ぐに理解できた。 チョコの行き場を失ったのかと。
えんじ色の箱にリボン。 どこから見てもバレンタインデーのチョコだった。
渡せなかったのか、拒否されたのか、それとも。
色々な考えがよぎったが、彼女はすすり泣くのをやめることはなかった。
気が付けば私は既に電車の中で、彼女が同じ電車に乗ったのかすら
分からなかった。
そんな衝撃は、ずっと尾を引いて
いつしか、バレンタインデーが近くなるとそんな情景が思い出され
空しい気持ちになった。
あの子はどうなったのだろうと、時々思い出す。
もうその子は結婚しているかも知れない。それほどに歳月は過ぎてしまった。
チョコはそんなに甘いものなのだろうか?
それとも、耐えがたいほどに苦いものなのだろうか?
最近の調査によると、バレンタインデーに反対している人は半数以上とも。
バレンタインデーを心待ちにしている人も、勿論相当数存在する。
チョコの製造メーカーやら販売店はホクホクなのかも知れないが、
悲喜こもごもの実態があることも。見逃しては行けないだろう。
あの様々な形と色どりで演出するチョコは、可愛く美しい。
その可愛らしさと美しさが、諸刃の剣にならないように願いたい。
バレンタインデーなど止めにして
いつでもいつの季節でも、それこそ誰でもが気軽に買えるようになって欲しい。
ケーキのように誰かにあげるだけでなく、自分のご褒美としても
食べられるようになって欲しい。
そうすれば、あのチョコたちはバレンタインデーと言う刹那に生きるだけでなく
多くの人に浸透し市民権を得ることだろう。
|