苛政は虎よりも猛し    2024.8.12

 元慶の乱(がんぎょう)、苛政に逢紀した蝦夷(えにし)

平安時代東北は朝廷の支配の及ばない、独立した国であった。

 

蝦夷(えみし)と呼ばれる人が住んでいた国である。 (※北海道の蝦夷ではない)

 

 

当地区の蝦夷を支配していたのは秋田氏。 蝦夷はその苛政に長年苦しめられていた。

 

878年、蝦夷は近隣住民を率いて秋田城(733年築城)を襲う。 これが元慶の乱である。

 

 

蝦夷は以下の12村 上津野(鹿角)火内(比内=大館)榲淵(鷹巣=北秋田)

 

野代(能代)河北(琴丘)腋本(脇本)方口(八竜)大河(八郎潟)

 

堤(井川)姉刀(五城目)方上(潟上)焼岡(金足)と3村を残し支配下にした。

 

朝廷は数千の兵を送ったが討伐できず、藤原梶長の寛政により蝦夷は降伏。

 

戦うことなく事態は収束した。

 

 

ここで注視してもらいたいのは、蝦夷の降伏である。

 

圧倒的な力を持った蝦夷の逢紀は侵攻でも乗っ取りでもなく、上訴であった。

 

それが故、藤原梶長の寛政に降伏したのである。 藤原梶長の朝廷への進言により、

 

朝廷は軍を解き事態は収束した。

 

以後は朝廷に属した者は俘囚(ふしゅう)とされ、田畑食糧を与え全国に移住させた。

 

 

苛政はいつの世も存在し、その度に一揆やら暴動・動乱が発生したのは歴史に

 

明らか。大塩平八郎の乱(1837年)などは有名であろう。

 

政治家は、いつの世も人民の平和と発展を願って行動しなければいけない。

 

基本であるが、解離することも多い。戒めであろう。

 

 

その後天慶の乱(938年)で秋田城は攻撃を受け、それ以降は概ね150年以上安泰で、

 

11世紀に廃城。 およそ400年から500年後に横手城(1554年)と大館城(1550年)

 

を設け盛岡からと弘前からの脅威を監視。

 

一国一城を基と成す国政としては、珍しい国であった。

 

 

何れの2城も戊辰戦争(1868年)で焼失した。 

 

大館城は260年間続いたが、盛岡からの侵攻時に

 

11代佐竹城主が事前に自ら火を放ち焼失させたものである。

 

 

※ 資料はウイキペディア様より引用しました

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