大館城跡地に建てられたのは?   2024.8.13


小学校。

 

 

大館町立男子尋常小学校をへて昭和22年、大館町立桂城小学校になりました。

 

昭和29年に現在の水門町に移転しています。

 

 

城跡地からはかなり離れており、

 

子供心に何で桂城と言う名前なのだろうと思っていました。

 

そんな桂城小学校が、令和6年150周年を迎えます。

 

 

大館城が築城されたのは1550年、焼失したのは1868年です。

 

その期間315年間です。 佐竹西家は、11代260年間城代を務めました。

 

 

878年の元慶の乱が無ければ、大館も無かったかも知れません。

 

戊辰戦争時

 

盛岡から攻められ大館は灰になりましたが、援軍により盛岡軍を蹴散らしました。

 

戊辰戦争が長期に渡れば、秋田の地図も様変わりしていたでしょう。

 

 

争いのない世界は理想ですが、これは本当に絵空事と思います。

 

十和田湖の境界線問題もそうですが、秋田と青森県の県境問題(矢立て)。

 

鹿角の秋田と盛岡の領有争い。 これらは明治からも続いていたと言います。

 

 

互いに譲り合うことのないのが国と国なのです。

 

線引きは地方財政に大きな影響を及ぼします。簡単に妥協などあり得ません。

 

 

まあ、兎にも角にも

 

城跡に建設され移転した桂城小学校。 歴史ある学校なのは言うまでもありません。

 

 

※矢立て

 

878年、津軽と秋田の境界線を決めるために

 

矢を射て当たった杉の木を県境とすることに。

 

青森県側は峠の頂上と納得せず、800年の長きにわたり揉めたらしい。矢立峠の言われ。

 

現在の矢立の杉の木は3代目になるそう。 道の駅から300メートル山奥と言う。

 

 

※十和田湖の境界線

 

秋田県と青森県の境界線が平成21年に確定。

 

なんと、141年ぶりの確定です。 こちらも境界問題からは150年以上と思います。

 

揉めたのは、面積による地方交付税の配分が理由。

 

 

あまり言いたくないが、大昔から秋田と青森は対立しており

 

仲がよろしくない。 現在でも矢立を抜け、双方を通るバス路線はない。

 

岩手(=盛岡)からのバス路線は毎日通っており、この格差は大きい。

 

 

※ 参考:大館市資料より

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