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思いっきりゴーストが入っている。なんでもない風景だけどそれが返って何か写っていないかと子細に探してみたりする。 どうやら奥の方に座っている人が見える。木々の間から見える堀の向こうがシャープに映し出されている。 とりわけ意味もない写真。これを撮るのには勇気がいるだろう。なぜならば、見るものに何かを期待させないからだ。 間違いなくコンテストなら落ちるだろう。普通の人が見ても一瞥だろう。 でも、じゃわいじじいはこの写真からいろんなことを考えたりする。
さて、 つぎの写真だ。 |
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思わず何だと思う。人物がこのぐらいの大きさで入ってくると、ついついそっちの方に気を取られてしまう。 なるほど、近くに人がいたのか。 ゴーストがどうじゃとばかりに真ん中に張り出してきた。 ビルも見えてきて都会らしさもしゃしゃり出てきたようだ。
それにしても、奥の人は何をしているんだろうなあ。
さて、つぎの写真に行こう。
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ああ。記念写真を撮っているのね。
ただそれだけなのだけれど、それだけを切り取るのには力量が必要だ。 普遍のものにシャッターを押せるか押せないかで、写真家になれるかなれないかが決まる。 シャッターは重いんだよ。人生だから。
なにげの写真に写っているものから、光を感じ、季節を感じ物語を感じて欲しい。 何も感じないいってか。なるほどなるほど。だからやだなあほんとやだなあ。ほれ感性のない人が見てもほれわかんないのだからなあ。 あははははは。
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(使用カメラ不明。使用レンズ不明。撮影時期不明。およそ十数年前。) |
まあ一番下の写真を切り取っただけなのだけれど、写真は一枚で全てを表現するという例ね。(いいこというなあ)
ちなみに、撮らされる写真と撮る写真は全く違う。 写真家はそれを知っていて、じつは自分の力量のなさに気付いていたりする。いつ看破されるかとビビッているのだ。 写真家でない写真家の人にはそんな概念は存在しない。だから平気なのだ。
作例のように、なにげの写真(じつはそんなことはないぞ)の写真を良しとする人はえらい。一枚一枚写真は撮るのだ。 この当たり前のことができないのだよ。だから写真家にはなれない。
わかるかなあ。あはははは。
しまったしまった秘伝を網羅してしまった。あひゃひゃひゃいかんぞよ。
またじゃ。 |