tokyoとミノルタ   2008.5.25



10年以上前、休日といえばカメラのショールーム巡りをしていた。どうしても作品を見ておかなければならない理由があったからである。その理由とは、作品の展示。つまり、写真展の事である。
当時はインターネットなど勿論存在しておらず、作品を広く世間に知らしめる為には雑誌への投稿かギャラリーによる作品展しかなかった。出版などは論外、なにせ前記の二点はロハ、つまり無料なのである。但し、敷居はべらぼうに高い。雑誌は投稿数も多く宝くじのようなものであるし、個人展は大量に作品を所持しなければならず、その経費は莫大となる。そのうえやたらと審査が厳しく(当然だが)困難を極めるのだ。しかし、それでもやらなければ他人の目に作品が触れる事は有り得ないのだ。それで各ギャラリーを巡回し、作品は全て見る事にした。まあ、はっきり言って苦痛以外の何物でもない。趣味嗜好、主義主張が異なる作品でも先ず見なければ先へは進めないからだ。

そんな行脚が数年以上続いた。

その頃感じたのは、35ミリフィルムの表現の限界であった。どうしても引伸ばしでは粒子が目立ち大中判とでは見劣りがする。それが作品を弱くし、プロとの力量差として現れてしまうのである。
tokyoが645や67に流れたのは、極自然のことだったのかも知れない。フィルムのフォーマットの差は大きく、アマチュアにとっては大変な敷居であった。

時代はウインドウズ98がヒットし、パソコンの夜明けが始まろうとしていた。
1999年1月年初、tokyoはミノルタ新宿ショールームに来ていた。なんでも年始の日だったか、まだ松が明けていない時だったと記憶している。その日は篠山紀信の「愛と肉体」と言う写真展をやっていて(1/5〜1/18)偶然そこに居た訳である。ミノルタの社員やら招待客やらが大勢おり、午後も遅く
大御所、篠山紀信はやって来た。気がつけばショールームに居る一般人はtokyo一人となっていた。慌てて退散したのは言うまでもない。tokyoはそこ(新宿ミノルタフォトスペース)には良く顔を出した。いや、ミノルタのカメラは持ってはいなかった。ニコンと中判オンリーだったから。実は、単体露出計を二台使っており、それがミノルタのだった訳である。修理などで縁があったのだ。ミノルタと言えば篠山紀信、篠山紀信と言えばミノルタだった時代が随分続いたような記憶がある。
ミノルタはカメラも優秀だが、特にレンズが優れていてポートレイト写真家や花の写真家には支持されていたようだ。有る意味tokyoには縁のないメーカーだったのかも知れない。

tokyoがパソコンを購入したのも1999年。そう、目的はWEBページつまりホームページの立ち上げであった。ホームページなら無料で写真展が開催できる。そう考えた訳である。しかし、それはとんでもない誤解であった。写真を取り込むスキャナーは遅く、高速ADSLも光も無い時代からのスタートは実に困難を極めた。OSも安定せず、XPになった2001年までの2年間は試行錯誤の毎日であったと記憶している。写真を撮って自家現像し、スキャナーで取り込みサイズダウンしてHPに載せる訳であるが、それが困難を極めるのだ。何せ色が合わないし、本来のシャープさなど微塵も出ないのである。勿論ショールーム巡礼も欠かさずしてはいたが、心はもう個人展にはなかった。デジタル時代の到来を信じた訳である。HPの実質のスタートは2001年であるが全く別ジャンルのHPを立ち上げ、それがそこそこ重宝だったりして、東京写真のHPは大幅に更新が遅滞することになる。
課金の問題もあり、遅々としてすすまぬADSLの普及の遅さに痺れを切らしていたのも事実である。
HPが一応の評価を得るのはやはりYAHOOに登録されるしかないと考え、挑戦。東京写真は2004年10月27に登録を果たした。 

時はまさにフイルムからデジタルへの移行の真っ只中であった。

tokyoは財政難から多くの機材を手放し、2006年デジタル一眼レフを手に入れる事となる。ミノルタ、いやコニカミノルタとの出会いである。しかし同年コニカミノルタはカメラ事業から撤退をする。
もしソニーが引き継がなければ、今日のαは無いしtokyoの手には他社のカメラがある筈である。ソニーはこれから先一眼レフをやる限り、ミノルタのレンズを避けて通る事は出来ないだろうし、そうはしないだろう。それほど、ミノルタの残した実績は偉大だ。ミノルタが開発し先鞭を付けたものは非常に多い。

写真をHPやブログで公開し楽しんでいる人が随分と増えた。玉石混交なのかも知れないが、情報を発信するものが居れば収集する人も居るわけで、決して無意味な訳ではないだろう。ただ、従来の作品展や個人展が敷居が高くなっただろう事は想像に難くない。現像機材は減少し、印画紙は大手の量販店でも壁が見えるほど粗末な品揃えに成って来ている。何せ商品の種類が無いのだ。機材も十年一日で変化が無く、価格も高くはなれど下がらない。インクジェットのコーナーは混雑し、現像用品は閑居と言う所か、時代の流れは止められないのだろう。

永い流離の中で、写真を発表するとか雑誌に掲載されるとかそんな意識は月日の流転とともに擦れて行ったように思える。やはりそんな流離の中で見えて来るのは、作品とか芸術なぞではなく、おどろおどろした人間関係や企みだけなのである。それにほとほと嫌気がさした。デビューは作品や感性では全く無い、別の要素が無ければ実現不可能なのだ。残念ながら一枚の絵を以って、全てを判断する力量は過去にも現在にも無いようだ。
それは写真界の開かぬ封建制度を意味する。それは写真界だけでは勿論無い。全てのジャンルに共通の物なのだ。弟子入りとか助手とか、未だに徒弟制度が崩れる事の無い世界はtokyoの本意では有り得ない。
と言うより気がつけばもう10年以上も経っている。意識も薄れる訳だ。


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