難聴であるということ 2



 

<難聴に対する誤解>

聞こえが悪ければ、難聴。もっと悪ければ高度な難聴。それよりも酷ければ重度な難聴とか言われます。
もっとも酷ければ聾と言う。
これは正しくもあり、また間違いでもあるでしょう。

基準通りには、実は聞こえないし、そして聞こえもするのです。ただ、間違っていけないのは「聞こえると言うのは、健聴者のように正しく聞こえる訳ではないことです。大部分が欠落し、欠損しフラットに聞こえる訳ではないことを知って欲しい。聞こえの検査判定は障害者にはできません。検査判定をするのは概ね健聴者でしょう。ここにギャップが生まれるのです。
補聴器のテストを受けるに、どこの場所で調整しても希望通りにはなりません。難聴者の必要レベルは健聴者の何倍もあり、レベルを上げられないのです。クリップし、音が歪んでもなおかつ必要な聴力レベルに達しないことは常です。

また、もっとも大事なことは聞こえている=音が入っているということが「解る、ということとは全く別のこと」だと知って欲しい。外国語をいくら大きい声で話しても、言葉を知らなければ雑音でしかないでしょう。これと同様のことが難聴者には日常で起きているのです。

つまり難聴者は補聴器を付けていても、

早口な人の言葉はわからない。
小さい声の人の言葉はわからない。
英語はわからない(聞き取れない)。
関西弁がわからない(聞き取れない)。
騒音の中では話している人の言葉が消える。
電話はこれらの全てが合体する、最大の難関機器であること。


そして最も困るのは、話している時は他の音が入らないことです。例えば誰かと話をしていて、急にその人が話をさえぎることに驚くのです。つまり、他の音(ドアの開閉、呼びかけ、ベルなど)が聞こえてないのです。これは補聴器をつけている者の悲劇でもあります。

補聴器をするまでもなく、聴力がやや低下した程度ではこのような障害はまず生じないでしょう。
私の聴力は左がランクで言えば重度難聴であり、右は高度難聴なのだろうが左は補聴器の効果はなく右も重度難聴用のものしか使えません。しかし、体感的には左右とも聾に近いのです。補聴器のスイッチを切ると、一瞬にして音が消えてしまいます。いや、聞こえるのは耳鳴りだけと言ってよいのです。常時鳴っている耳鳴りしか全く聞こえることはありません。地下鉄内の騒音も聞こえることはありません。
手元にシェーバーがあり、スイッチを入れるとけたたましく騒音を発しますが、左は耳元においても聞こえません。右は補聴器を外した状態ならば、騒音が聞こえます。しかし、騒音と言うには如何なものかと言う小さいレベルではありますが。

補聴器は聴力を劇的に改善しますが、基本は人の声が如何に聞こえるかです。難聴者にとってこれは諸刃の剣でもあります。
人の声は最も大事ですが、あくまでも対人間の場合です。それ以外は無視されることになります。これが問題なのです。多くの人は補聴器装着で音楽を諦めるのです。
自然の豊かで大らかな音の世界は、はっきり言って無縁と言っても良いでしょう。

初詣に行くと、神社などに大きな太鼓があり、威勢よく叩く太鼓は腹に響く音がするでしょう。しかし、この太鼓の低音が全く聞こえなって久しいのです。難聴というものはそういうものなのです。お腹の皮が振動でブルブル震えても、太鼓の低い音は全く聞こえないのです。補聴器は聞こえると言っても、太鼓は苦手中の苦手。大きな音にはリミッターがかかりクリップするし、音は歪むし最悪なのです。聞こえないよりまし、そういうレベルなのです。補聴器は衝撃かた耳を守るように設計されているし、アンプも過大入力には弱いのです。

これまでの説明のように、難聴も進行するとまず大きな音は聞こえなくなります。車のクラクションも、通常では全く聞こえないのです。
だから、大声で話せば何とか聞こえると思ったらそれは全然違います。
聞こえの度合いは検査で具現化できますが、不自由さは具現化できないのです。
そういう意味で、高度難聴は不自由さは聾とほとんど変りません。救いは補聴器だけなのです。まさに補聴器は杖なのです。

補聴器を外した時の危険度は、聾や全盲とほぼ変りません。それほどに危険な状態であることを多くの人は知らないし、知ることもないでしょう。補聴器を外して寝るのは常ですが、これは非常に危険な状態なのです。就寝時の災害にはまず対応できないでしょう。
難聴とは、氷山と同じ。
障害と危険度がまるで見えていないのです。それを知って頂ければ幸いです。


2010年記

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