東京写真きままなエッセイ   東京写真 きままなエッセイ未来編




未来編映画「猿の惑星」に見る近未来



人類は飛躍的な進化を遂げ、生物の頂点に立っている。これは間違いのない事実だといえます。

人類は戦争と共に知恵を付け、文明を構築し現在に至っています。

テレビも、スマホもパソコンも、豪華なホテルも高層マンションも、ありとあらゆる物は数百年前にはなかったのです。

もっと溯れば、2000年前には映画「ベンハー」の時代です。キリスト亡き後26年後、ローマ帝国の時代です。

2000年かけて、人類は現在に至りました。今や最後進国とされたアフリカも、文明は先進国とさほど変わらない筈です。

映画「猿の惑星」は1968年に最初の映画が作られました。もう50年近くも前の作品になります。シリーズは5作品に上ります。

文明や文化は一度荒廃してしまうと、元には戻れません。今身の回りにある物全ては、数百年いや数千年掛けて構築してきたものなのです。

今手元にあるスマホも、パソコンもテレビも冷蔵庫も、一人で作ることは出来ません。

何かを作るには道具が要り、その道具を作るにはまたそれを作る道具が要ります。こうして何かを作ろうとすると、

無限回廊に陥るのです。その辺にある木を削り組み合わせて何かを作る、その程度しか出来ません。火をおこすのも大変でしょう。

それから金属を作り機械を作るには、何世代も時間が掛る事でしょう。

それも図面やマニュアルが有ればの話で、それらの文化が消滅してからでは恐らく何も出来ないと思います。ノウハウはないのです。

猿の惑星の映画は、猿と人間が進化の過程で逆転された様子が描かれていますが、これは妥当な設定だと思います。

全てを失った人間は、次世代に残すものは何もないでしょう。現実社会でも同様の現象は起きています。

ICが全盛になり、個々の部品を使う製品は激減しています。チップが全てを支配し、ICチップが壊れたらチップを交換するしかなくなっています。

修理が出来ないのです。ICチップに代わるものはやはりICチップであり、物ではありません。

もはや物では同じものが作れなくなったのです。

真空管の時代は計算機でもミカン箱数個の大きさでした。それが1センチ、数ミリ、数百分の一、数万分の一と進化したのです。

もう、人間一人では何も作れなくなった時代が来たのです。

核戦争により人類は絶滅する、それは誰でも知っています。たとえ絶滅しなくても、その未来は決して明るくはありません。

人類が構築した文明・文化を再び構築するんは、例えようのないほど長い時間が掛る筈です。数千年いや、数万年掛るかも知れませんし、

人類はそれを成し遂げられないかも知れません。昆虫や他の動物の様に生きていくだけかも知れません。

しかし人類の脳は比較できないほど大きいので、文明を構築するかも知れません。また、争いを始め歴史を辿るのかも知れません。

そして、現在とは全く違う文化を構築するのかも知れません。現状の動物が人間より進化することは考えにくいですが、人工知能が

人間の脅威になることは間違いありません。核で人類は滅びなくても、人工知能の支配により滅びる可能性は非常に強いと考えられます。


映画「猿の惑星」最終章では、争いを重ねた人類と猿が共存して平和に暮らす姿で終わっています。

現実の世界では世界戦争が終了し半世紀、しかしまだそれだけの時間でしかありません。現在でも戦争はやむことなく、

平和を脅かす人間は絶えることが有りません。

これから100年後はどうでしょうか。核兵器は錆びついて使えなくなるのでしょうか。それとも廃棄されるのでしょうか。

既存国が核を廃棄しても、後進国が新たに核を取得するかも知れません。それの繰り返しなのでしょうか。

1000年後はどうなのでしょう。まだ地球はあるでしょうか。人類は核を使ったのでしょうか。

2000年後はどうでしょう。平穏な世界は訪れているでしょうか。それとも、愚かな争いを続けているのでしょうか。

「猿の惑星」の原案の小説を1963年に書いた、ピエール・ブールは1994年81歳で死去しています。




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