東京写真オーディオスペシャルピアノ編
まず弾きたくなるのがエリーゼの為にであり、ピアノに興味を持ち始めると乙女の祈りに出会うのが定番らしいです。 エリーゼの為にはなんとか弾けるようになるけれども、乙女の祈りは中々に難しくハードルが高いですね。 何時の日かすらすらと弾いてみたいと、誰もが憧れる曲なのです。 エリーゼの為には巨匠ベートーベンの作、方や乙女の祈りは無名のバダジェフスカの作。乙女の祈りは知っていても、作曲者の名前は出てこない。 現在もそうだが、当時も無名であったのは変わらないと言う。 バダジェフスカは1834年ポーランドに生まれ、1861年に27歳で死去したとされる。この乙女の祈りは18歳~22の作とされるが正確なことは分からない。 楽譜が雑誌の付録に掲載されたのが1856年なので、18歳で完成し22歳(1856年)の時に発表と考えるのが妥当でしょう。 それを機に世界的に有名な曲になったと言うから、その付録に載らなければ「乙女の祈り」は今聴くことはなかったでしょう。 ポーランド人ではないが、ポーランドと言えばショパン。彼はバダジェフスカが生まれる前にポーランドに住んでいたことは周知の事実ですね。 バダジェフスカが少女時代にはもうショパンはポーランドにはおらず、ドイツやフランスに居を構えていました。 しかしながら、その影響は図らずもあったのではないかと思います。1849年ショパンは死去するが、当時バダジェフスカは15歳。遺志により、 ショパンの心臓はワルシャワの協会に眠ることとなります。 ショパンは20歳(1830年)までポーランド(ワルシャワ)に住んでいましたが二度と祖国に戻ることはなかったそうです。しかし、ポーランドを愛するショパンの 望郷の念は人一倍強かったとされています。 最も感性に溢れた時期をショパンはポーランドで過ごしています。有名なノクターン「夜想曲」も17歳の時の作曲とされています。 ショパンがポーランドに帰らなかったのは、軍政を強めるロシアに対する反発心であったとされます。 かかる天才のショパンを送り出したポーランドですが、たとえ知られる曲がただ一つであるにせよバダジェフスカの功績は大きいですね。 技巧だの音楽性だのとやかく言うまでもなく、乙女の祈りは現在に生きています。 曲が発表されてから160年、乙女の祈りはピアノを弾く者にとって憧れの名曲として生き続けているのです。 世の中からピアノが無くならない限り、 人類が生存していく限り、 乙女の祈りは共に生き続けていくことでしょう。 |