初見演奏、何のために楽譜を読むのか

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初見演奏とは、初めての曲でも楽譜を見てその通りに(指定された早さで)弾くことです。
つまり、練習が必要ないのです。
必ず指定された速度で弾くのだそうです。そして、どんなに間違えても決して演奏を止めてはいけないのだそうです。
随分と偉そうな言い方ではありませんか。
止まらないのは、オケ等と組む時に止まっては全てがだめになる、と言う理由もあるそうです。

初見演奏が役立つのは主にプロの世界。当日楽譜を渡されても問題なく演奏ができるからです。
楽譜には、全ての情報が事細やかにきさいされているから、何ら問題はない・・・筈なのだけれど。
これが出来れば、ピアノのグレード試験に合格することも可能だろうし、ピアノ教師として生計も可能ですね。
実際はどうなのでしょうか。

ピアノの上達が遅い人は、鍵盤を見て指を見て弾く(私もそう)。楽譜の譜読みはマイペースで、楽譜→音拾い→鍵盤
→指→楽譜、と繰り返すのです。つまり、必ず鍵盤を見る過程があるんです。
つまり、覚えること暗譜が何よりも重要と考えます。楽譜は暗譜するためのアンチョコ、解答書と理解してます

突き詰めて言うならば、楽譜はアンチョコなので、楽譜を見て弾くのはナンセンス=邪道と、ほとんどの人は考えますよ。
サロンで、ピアノの上に楽譜が並んであったり、楽譜を沢山持参するピアニストには正直言って、げんなりするんです。
楽譜を見ないと弾けないのか、と本当にそう思うのですよ。これはもう誰でもそう思う筈。
その事をピアニストは知らない、と言うか楽譜はピアノセットのものなので考えもしないようですね。

暗譜の手間暇がないだけに、非常に楽な演奏になるんですよ。つまり、必要悪であり褒められる事は微塵もない事。
そんなことばかりやっていると、頭の中には何も残らないですね。頭は高速な音譜変換器として作用するだけになるんです。
音楽をやっていながら、音楽が頭に残らないのです。
楽譜を=音譜データを入力すると、その通りに奏でるコンピューター音楽。それは、そこそこに聞けるけど、
何か足りないって思うでしょ、やっぱり。学習しないんですよ、同じなわけ。Aと言う音楽は、何度弾いてもAな訳、それ以上でもそれ以下でもないという事。人が感動するのは食べ物でも何でも、プラスアルファがあってこそだと思います。
AがAダッシュになってこそ、味であり、時空を超えたと言えるのじゃないですか。

そのために、脳にはしっかりと過程を記憶させておく必要があるのです。
楽譜なんて必要悪なんです。頼ってはいけません、決して。脳には楽譜なんて、いくらでも入るだけのスペースがあるんですから。

基本メロディ覚えれば、演奏法は無限にあります。一つの曲のバリェーションは無限という事です。楽譜を見て弾いていると、
楽譜に乗らない=付け足しの音譜は弾くことが出来ません。人間は機械ではありません
初見演奏に長けると言うのは、あまり褒められません、いや褒めません。楽譜から離れましょう、と言いたい。

良く、だれそれの演奏はメロディが大きいとか、繰り返しが足りないとか、はたまた演奏速度が遅いとか、楽譜通りでないと言われる
事があります。大概にして、音大での学生やピアノをかじった人の意見はそうなります。
聞くものにとっては、五千曲きっちり正確に弾ける事より、ただの一曲感動を与えられる曲が大事なのです。

前にも述べましたが、作曲家は生計の為に曲を作ります。必要に迫られて作るのです。これはショパンの時代も、
現在もなんら変わりません。十あれば一つ、百あれば十・・・、ヒット曲(支持される曲)はそんなもんです。

つまり、五千曲弾けても本当は意味がない、自己満足と見栄なのです。

最初に戻りますが、初見演奏に長けた人は、鈍亀(楽譜→音拾い→鍵盤→指→楽譜)の人の気持ち、脳内構造が分かりません。
ですから、なんでこんな簡単なことが解らないのだろうと思うはずです。でもそれは間違い。
初見演奏ができれば何でもできるのだから、それだけ分かればピアノ教師はいらないことになります。
初見はテクニックですから、繰り返せばできるようになります。教師は、一番大事な音楽を教えなくてはいけないのです。

サロンで楽譜を見て弾くプロのピアニスト、何を学んだのでしょう。
学校に行って勉強すれば、誰でも職人になることは出来ます。しかし、芸術家には難しいかと思います。
第一芸術家は、学校なんて行かない。自分で努力する人が芸術家になれるのじゃないでしょうか。

初見演奏が必要な場面は素人には全くありません。その訓練より、もっともっと大切な訓練があることを忘れてはいけません。
一年で百曲弾けるようになるより、数曲でも思いを込めて弾けるようになることが必要です。

楽譜には作曲家の思いが全て入っています。でも、本当はそうではないのです。
この方が良かった、これは要らないなんて作曲家は後で思うのです。
クラシック曲では、もう本人に会えませんから、そんな気持ちまで推し量ることがとても大切です。
断捨離が必要なのです。
クラシック音楽は作曲者に敬意を表して、楽譜通り正確に弾くのだそうですが・・・、ある意味正しく
ある意味間違いと思っています。

最近の曲を見てください。オリジナルの楽曲よりも、アレンジが素晴らしいものが支持されることは良くあります。
クラッシック演奏家はポピュラーは自由に弾いていいからねなんて皮肉りますが、そうではないのですよ。
アレンジ出来てこそ音楽の幅が広がるのです。出来ない者の妬みです。

クラッシック曲、ショパンノクターン第二番を例に言うと、良く知られている曲だけに沢山の人が演奏します。
楽譜通りに弾くと、案外普通の曲に感じます。
実際、当時のピアノは現在ほど優れてはいませんでしたし、環境もまるで違います。
ショパンがどのような気持ちで作曲したのかは、知るすべもありませんが、その背景を知ることは重要な事かも知れません。
21歳の曲らしいですが、ショパンにしても多感な年頃、1830年にワルシャワを離れています。色々な思いがあったに違いありません。
弾くのにやさしい曲とされますが、どっこい大変な難曲です。
楽譜通り弾いたなら、必ず平凡になる恐ろしい曲です。つまり、心に響く演奏はまず無理、誰でも。
夜想曲、真っ暗な中に、湖に落とす月明り・・・、誰に思いを馳せるのでしょう、静かな世界が
余韻を持って響いてこなければなりません。譜面には描かれない時空の陰り、それを拾い上げるのはとても難しい事。
装飾を持って繰り返される・・・、のではありません。さざ波のごとく水面が揺らぎ、そよ風が吹き注ぐのです。

そんな情景を読み取らなければ、この曲を弾いたとは言えません。
出だしの「シーソの音」、これにどれだけショパンは時間を掛けたことでしょう。弦の揺らぎは湖の揺らぎを伝える事ができましたか?
さざ波のように揺れる水面を再現出来ましたか? 月に照らされ、水面に舞い踊る二人の影、それを貴方は伝える事が
出来ましたか?

もちろん、これは私の勝手な解釈です。しかし、ショパンもそんな光景を思い浮かべて書いたに違いありません。
だから、とても難しい曲なのです。その人の音楽性はおろか、全てがむき出しになってしまう曲なのです。

とても美しい曲です。フジ子・ヘミング氏のノクターンは、最もショパンに近い名演だと思います。
「間違えたっていいじゃない、機械じゃないんだから」、そうフジ子・ヘミング氏はいいます。

こんな心温まる言葉はありません。





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