ピアノ東京写真PLUS ピアノ編

楽譜に対する思い違い   2019.11.17

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音楽、取り分けクラシック音楽は、忠実に楽譜通りに弾かないとダメと言われる。 そしてその理由は、大昔の作曲家に対する敬意なのだそう・・・。

なるほど、音大ならそう言うかも知れませんね。 確かに、数多くの作曲家が音楽を支えている・・・さもありなん。


楽曲のもとになる楽譜、よーく考えてみると白いキャンバスに描いた絵に等しいではないですか。 完成されれば額にはめられ人様に公開する。

違うのは表現方法、絵が連綿としたアナログだとすれば、楽譜は正にコンピューターの言語・・・デジタルだと言うことが出来ると思います。

絵と言うのは、いくらでも手直しが出来ます。 それだから絵であって、実に不確実で多様性で流動的です・・・完成されるまでは。


楽譜と言うのは、チマチマした音符の羅列ですから、これもまたいくらでもやり直しは出来ますね。 無限に書き換えが可能なディスクのようなものです。

AがあってA1があってA2があってと、いくらでも変化が可能です。 作曲家のおぢさんは大変だな、うーっ、こうでもないあーでもないと書き直し続けます。

今時と違って、記録は紙だし書き損じたからと言って簡単に捨てる時代でもなかったり・・・。 思うに、大変な思いをして作曲したのではないかと・・・。


つまり、英雄ポロネーズも結局は熟慮の商品なのですね。 エリーゼのためにもしかり。 あまたある中から選ばれた妥協の一品である可能性は

否定できません。 クラシック音楽は、生活のための商品であったことを認めなければいけません。 

こう考えるのは少数派ではなく、かなりの人が楽曲の改変に挑戦したりしていると考えます。 編曲ここにありきですね。 大事なのは一粒残らず吸い上げる

事じゃなくて、骨なんじゃないかと思います。 唯一つの楽曲でさえ、演奏家が違えば変わって聞こえるし。楽器が違えばまた違って聞こえます。


楽譜通りに弾くと言う事は、パソコンに任せましょう。 楽譜通りに弾くと、何故か無味乾燥の曲に聞こえるのは周知の事実です。

前回触れましたが、楽器は正しい音を出すわけではありませんし、人の演奏はもっともっといい加減です。 機械の演奏とは、似て非なるものなのですね。

楽譜を読んで、記号通りに弾くと味のない音楽になります。 味があるのが音楽なのに、味が無くなる不思議を大量生産してはいませんか・・・?。

ノクターンを弾いて、フジコヘミング氏だと分かるのはそういう所にあります。 骨に身を着けるのは演奏家であり、それは子供でも初心者でも変わりません。

間違っても一向に構わないのが、音楽なのじゃないでしょうか。


正しく弾く事に拘り過ぎると、金太郎飴の大量生産になってしまいます。 正しく正確に弾くのは、次の次の次位で良いのです。

本当は沢山の間違いの中からしか、正しいものは見つかりません。 ピアノを楽譜通りに弾くと言う事は、遅かれ早かれ出来る事なのです。

学ばなければ行けないことは、そういう機械的な事技術的な事じゃないと考えます。 なぜなら、

音楽は不確かな揺らぎのある、感情の醸し出す不思議な物だからです。 心にスーッと入り込む、それが大切なのではないでしょうか。


器用貧乏という言葉があります。 何でもこなすけど、何も身につかない・・・と言う事でしょうか。

ピアノを練習するのは、本当の意味で上手に弾きたいからではありません。 それは良く表現できませんが、ピアノとの対話だと思います。

ピアノは楽器だけど、色々なことを要求される複雑な楽器ですね。 自分の心が、そのまま音になって跳ね返ってきます。

そう言う意味では、弾き手とピアノの駆け引きを汲み取ることは中々に難しいことだと言わざるを得ません。


ピアノは自分を写す鏡のようです。 でも、それは他の人には何も映らない鏡でもあります。



こわいな・・・。

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