フイルムをツカイナサイ  2010.8.22





いやあ、デジタルに秋田もとい飽きたわけではないぞ。フイルム(ネガのこと)をスキャンしているとつくづくそう思う。
便利だ便利だと思って、何気に使いまくっているデジタルカメラだけれどもよくよく考えて見ると、ただそれだけなのだ。
じつは、他には何もない。つまり便利なだけでほんと何もない。それに気付く。
だから、フイルムを通り越して写真世界に入る人は或る意味なさけない。本当になさけないのだ。
プロはしょうがない。いや本当にしょうがないのであって、決して褒められない。本当に褒められない。
失敗は許されない。いやそうではない。失敗はみっともないことなのだ。

じつは、写真は失敗するようにデキテイルと言っても言い過ぎではない。
どうしても失敗が付きまとうのである。一枚の写真なんて有り得ない。それ位写真というものは好い加減なものなのだ。
だから、みんな怖気付く。何せ一枚の写真で評価されてしまうのだ。ほんとはたまったものではない。
だから押さえを撮る。つまり抑えを取る。解るだろうか。じつにだらしがない。

それがじつは、本当の写真家の姿である。というのは建前、たんに生地がないだけなのだ。ワシだって食い詰めるのは嫌である。
一本のフイルムが36コマならば、まあ30枚は色んな写真が撮れるだろう。普通に思ってそうなのだけれど、じつは意味もなくフイルムを無駄にする。次のコマがあるというのがまずイケナイ。もう一枚なんて思う心はじつに嫌らしいではないか。
出来上がったモノを比較してどちらかを没にする。じつになさけない行為ではなかろうか(そうでもないか)。

少なくともデジタルカメラはそれらを助長する。モニターは大きいほど良い。
考えれば、モニターが1.8インチでも3.5インチでも撮れる写真に影響は全くない。あるはずがない。見なくても良いのだ。
しかしこれはじつに困難なことである。目の前の食べ物は食べるためにある。ほおっておけば腐るだろう。
エレベターは使わなければ設置するだけ無駄になる。あはははは、だからモニターも見るってか。ばか。
だから上達せんのだなあ。自信なさ過ぎ、というかカメラというものは、シャッター押したらまず映っている(はず)。
それが機械なんだよ。
思い通りに撮れないのはあんたのせいなんデアリマス。あひゃひゃひゃひゃ、わしじゃった。

デジタルは消せる。これが問題なのだ。失敗したものや気に入らないもの(同じか)をどんどん消し去ることが出来る。
まあ、てもとには割り合いましな写真が残るだろう。これが写真の下手になる元凶である。
失敗を晒すのは、技量を晒すように思えるのじゃなあ。これがまず違っている。写真はカメラが撮るのであって、
写真家はあまり技量には関係がないのだよ。隠さんでいいのじゃ。
三枚しか撮らない写真家がいたとしたらそれは素晴らしい。ところが、大抵は100枚も撮るぜよ。じつに阿保らしい。

昔はこうじゃった。

カメラを首から提げたオッサンもとい紳士。まず、風光明媚なところに行っても一向にカメラのカバー(ケースともいふ)を開けない。
人はみなあちこちでパチリパチリやっているのに、お構いなしだ。つまらないのかと思って顔色を伺うと、そうでもないらしい。
笑顔であちこち感心そうに見ているのだ。ますますに怪しい。
フイルムが切れたのかなと思ったりするが、第一いちどもカメラを構えた様子などなかったしと中々に気になったりする。
いや、何故に気になるかというとカメラを首から提げるのは通ナンデス。あんなもの、重いだけで伊達にぶら提げたりはしない。
皆が撮り終えて、帰ろうとしていると。撮っているのですなあ。おもむろに。でも、あっと言う間。
こういう御仁は二日位同行しても、カメラを構えているのに遭遇するのは難しい。
そう、
これが昔のというか、昔風の写真の撮り方なのである。正統派なのである。
デジタルカメラ使いならば数百枚は行っているだろう。多分に紳士は二日で十枚も撮ったであろうか。
いや、正解は三枚だった。これは嘘のような本当の目撃である。

わしのような天才写真家でも、フイルムを一本撮るのは難しい。
何故ならば、シャッターありきではなく風景ありきだからである。少なくとも自分にとっては対象を見ている時間の方が、
写真を撮ろうとしている時間より圧倒的に長い(あたりまえか)。
フイルムは後に戻れない潔さがある。カウンターが減るのは一緒のように思えるが、そうではない。
今撮った写真は次に撮る写真に恥じないだろうか、そんな思いがいつも残る。

フイルムをツカイナサイ。まず一本を一ヶ月掛けて撮って見よう。
きっと写真が上手くなる。


なんてね。


つづくぞ。


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