写真の表現は自由、写真は藝術である  2009.10.117



写真の表現は自由、写真は藝術である 。いやはや何でまたこんなことを言うかというと、お祭りを取材に行ってバッチリ注意されたのです。
まあ一眼れーふなどを持ち、馬車馬車もといパチパチシャッターなどを切っているのがお祭り関係者の肝にさわったらしい。

お仕事ですかときた。
それでコノヤローと思ったが、いやと答えると
趣味で撮っているんですかときたね。
そいでもって、お客様の顔は撮らないでくださいときた。何だこいつは!!!
あかの他人に文句を言われるぐらいだから、当方の撮影には相当なる問題があったのか???
はたまた誰かが注意しろと言ったのか???? 
どうも違うみたいだ。
ウインドウのマネキン人形じゃあるまいし、首から上のない写真を撮れとでもいうのか。ああ空恐ろしいではないか。

それにしてもかなりムカつくね。写真機を持っていれば誰でも写真家なのであり、目的は記録行為しかない。
まあ世間では写真藝術ともいうのだぞい。あったまにくるではないか。

仕事ならどーだというのだ。撮ってもいいのか。それとも取材許可でも取れというのか、あほらしい。
しろーとならなおさらどうのこうの言われる筋合いはないではないか。
第一撮影禁止場所ではないし、だいいちお祭りではないか。
持っているのは一眼レフカメラであり、あちらやこちらでパチクリやっている携帯やコンパクトデジタルカメラと機能は同じなんだよ。
レンズから玉が飛び出る訳でもないし、赤外線透視カメラでもないんだよ関係者のおばさん。

勿論、写真を撮って良い場所とそうでもない場所があるのは事実です。ほとんどの写真家はそれをわきまえて活動をしているはずです。
まあ、こそこそと撮らなかったこちらにも非難される要素はあるのかも知れません。
しかし、ここははっきりと言いたい。
写真家は仕事であろうとなかろうと、撮るのが当たり前なのです。カメラは撮るためにこの世に存在しているのです。
他人がつべこべ言うことはありませんぞ。
文句というものは、撮られた者が言うのです。とりまきのやからが言うべきものでは断じてないのです。

報道写真は誰もがその恩恵に与かっているはずだが、許可を得て撮影なぞほとんど有り得ない。
事件の修羅場を伝えるのは写真家なのだ。それによって人は知識を得ることだろう。それが事件の予防や抑止にも繋がることがあるかもしれない。
風景写真なら誰に許可を求めると言うのだ。山や湖当てに申請の郵便でも出すと言うのか。

肖像権や個人情報のような防御意識というものはは、作品を構築しようとしている写真家にとっては実に厄介なものなのです。

tokyoは海水浴場などは行かないが、そこでもカメラを持つものは泥棒か犯罪者のような目で見られると言う。
確かに不埒な者もいるわけで、文字入りのタスキを掛けて撮影する訳ではないからわからないでもない。

路地裏写真家も然りである。人が来たならばまず疑われる。立場のないのはコソ泥とたいして違わないのだ。
風景写真に転向して熊にかじられるのも痛いし、報道写真は死ぬ確立が極めて高いのでこれも遠慮だ。
そんでもってスナップ写真ときたならば、身構えて石でも投げ付けようとするやからが現実に存在する。これは情けないな。

ああ、
そうだ、ふところに「人物は撮りません」と大書きした紙を忍ばせておいて
これこれと来たならば、
はいはいといいつつ、ふところからその大書きした紙をおもむろに出して突きつけるというのはどうだろう。
バシーっと叩き落とされたりして。あはははは、適わんなあ。

路地裏の場合はどうだろう。
ふところから「泥棒ではありません」の紙を出す、、、、、、むむむむむっ、あははははやっぱだめじゃー。

たすきをすれば余計に目立つし、いっそ目立たぬように黒子に徹し黒メガネに黒装束ではどうじゃろう。あはははは余計に泥棒じゃい。

そうだ、拡声器にラッパをつけて録音機を流して歩くのはどうじゃ
「わたくしは〜どろぼふではありません。写真家ですう〜、あなたのお顔は撮ってません〜、はいはいお顔入りなら一枚千円にて承りますう〜」と流して歩いてはどうじゃろう。
怪しまれないぞ。あはははは、すっごくあやしいあやしい。

まあ今回はタスキやふところ紙、拡声器の類を用意してお祭りに望まなかった当方のミスじゃわい。あはははは。

じつは、お祭りなぞ全く撮ってなく、会場がお祭りだっただけで郷土資料館(撮影可)の中でのことでありました。

もちろん、お祭りなどの人物の人の顔を撮りまくって鑑賞する趣味なぞ当方にはアリマセン。
ケチのついた写真は縁起が悪いので、当然のごとくバッサリと削除したのは言うまでもありません。





なーんてね。

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